水野 雄氏 (みずの ゆうじ)

故・山口信夫氏が主張し、実践したこと

故・山口信夫氏が主張し、実践したこと
  • 本棚を眺めていたら、「人間 山口信夫」というタイトルの書籍が目に留まった。サブタイトルには「信じた道を曲げず」とあり、帯には「日本商工会議所会頭・旭化成会長の重責を担う男の実像にせまる渾身のノンフィクション」と記されていた。2007年8月に、産経新聞者の元記者である綱淵昭三氏が中央公論新社より出版した書籍だ。久方ぶりに手に取り、頁をめくり始めたら、私が旭化成に勤務していた時代が彷彿と蘇ってきた。山口氏は、私が秘書・総務担当役員として、名実ともに仕えた直属の上司であり、この世から旅立つ瞬間に立ち会うことにもなった。山口氏が亡くなられたのは、10年9月で、85歳での旅立ちだった。山口氏に関する本は多数あるが、その時、もう一冊手にしたのは、13年発刊の『一隅を照らす経営を貫いた山口信夫』だった。これは元『財界』編集長で経済評論家の大野誠治氏の著作となる。山口氏の生誕は1924年12月23日、出身地は広島県庄原市だ。45年6月に日本陸軍士官学校(58期)を首席で卒業し、少尉として平壌へ出征。その後、ソビエト連邦のタタール共和国での抑留生活を経験し、復員後の52年に東京商科大学(現・一橋大学)を卒業すると、同年旭化成に入社した。山口氏は旭化成中興の祖といわれた宮崎輝社長の右腕として、74年に住宅事業部長に就任した。その後、山口氏は「ヘーベルハウス」の立ち上げ携わったものの、当初は知名度も無く赤字事業だったという山口氏はそれをグループ内で最も利益を上げる部門へと転換させる流れをつくった。その後も常務、副社長を経て、92年に会長となっていた宮崎氏が死去すると、後任として山口氏は会長に就任した。会長として旭化成グループ内の多くの事業を再編成した山口氏は、同社を日本一の総合化学会社に躍進させた。2000年には世界の化学メーカーで12位にランクインさせている。そして宮崎氏亡き後の絶対権力者として長年にわたり君臨し、歴代社長(計5名)を采配した。一部では「宮崎会長を超えた」とまで囁かれたという。また、当時は総花的に活動を行っていた社内スポーツ部を陸上競技部、柔道部、バレーボール部の3つのみに集中させ、日本有数の強豪チームに育て、多くのオリンピックメダリストや名選手、名指導者を生み出した。さらには、第17代日本商工会議所会頭として、経済と地方の再生にも尽力した功績もあって、07年旭日大綬章を授かっている。おおむね以上ではあるが、私は山口氏が副社長をチップ努めていた1985年7月から、没年である2010年のその“瞬間”までの約25年間身近で仕え、まさに謦咳に接してきた。山口氏は、余計な物言いを決してすることはなく、存在そのものが大人(たいじん)の風格で、いまでいうカリスマという言葉を体現する人格者だった。常に周囲の人達との絆を大切にし、その縁を生かすことで、一人でも多くの人が「今日が幸せであると感じられることが肝要」としていた。自分を飾ることもなく、いつも自然体で、等身大の自分をみせておられた姿が懐かしく思い出される。決して大袈裟な話ではなく、その人間性から実に多くのことを学ばせて頂いた。

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