政治家エピソード連載(中曽根康弘・中曽根弘文)

政治家エピソード連載(中曽根康弘・中曽根弘文)

中曽根康弘元総理が先月11月末に逝去された。大正7年に生まれ、101歳とご高齢ではあったが、昭和、平成、そして本年の令和元年と、格別の存在感を放ってこられた大物政治家だ。私は旭化成という一民間企業の出身だが、秘書・総務畑が長かったこともあり、政治の世界を垣間見てきた。例えば、日本経済団体連合会(経団連)の「企業人政治フォーラム」代表幹事などを数年務めたりしていたが、それ以前から多忙を極めていた故山口信夫会長の代理として、自民党三役や大臣経験者のお座敷の末席を汚すなどもしてきた。その後も、旭化成の“政治担当役員”的な位置づけで、多くの先生方ともご縁ができていた。そこで今回からの数回にわたる連載で、私自身が若い頃から身近で接してきた先生方の、その時々の印象などを“主観”で述べさせていただくことにした。旧聞に属する話もあろうかと思うし、政治家であるので「先生」とお呼びすべきではあるが、敬称を省き、「さんづけ」で書かせていただくこともお許しいただきたい。まずは、私の頭に浮かんできている先生方を(敬称略・順不同ではあるが)列記してみたい。一方的な思いかも知れないし、濃淡もあろうが、多少なりとも先生の方からも私を認識していただいていたことを“目安”のひとつとした。内容的には、先生が不愉快に感じられるとか、ご迷惑をおかけすることはなく、むしろ感謝の気持ちをお伝えしたいとの思いである。現時点で予定している先生方は次の通り¬⋆⋆⋆⋆

中曽根康弘、中曽根弘文、山崎拓、与謝野馨、二階俊博、加藤紘一、中川秀直、額賀福志郎、江藤拓、鈴木宗男、麻生太郎、松本剛明、小渕優子、石破茂、丹羽雄哉、松島みどり、加藤勝信、梶山弘志、甘利明、石原伸晃、太田昭宏、棚橋泰文、山口那津男、金子一義、伊吹文明、高市早苗、石田真敏、逢沢一郎、岸田文雄、山本有二、山本幸三、野田毅、盛山正仁、福田康夫の各先生

                                                 

まず今回は、冒頭で触れた中曽根康弘元首相について少しだけ補足する。私が旭化成に勤務していた頃の直属の上司で、前回の本稿でも取り上げた故山口信夫会長(元日商会頭)に随行し、数回にわたり中曽根事務所を表敬訪問したことがある。ご子息で文部大臣・外務大臣等も歴任された中曽根弘文さんの話にもなるが、お父上の秘書になる前は、旭化成に勤務されていたこともあり、私は個人的にも懇意にしていただいてきた。但し、この時の訪問などは、弘文さんとは一切関係ないことであったし、弘文さんもご存知なかったはず。そして、お父上の偉大なる功績に触れる必要性はないし、触れるつもりもない。ただ、中曽根さんの旭化成に対する思いを一言だけ言えば、元総理は“旭化成の中興の祖”と評された宮崎輝(かがやき)さんに対して一目置いていた点があげられよう。旭化成の内輪の話題になり恐縮だが、宮崎さんは社長・会長を31年間にわたりつとめ、旭化成に君臨した人物で、政界への結びつきも強く、輝会(かがやきかい)と命名した政治家先生方を支援する会まで開設したりもしていた。もともとの動機は、競合が激しく、まとまりがなかった当時の繊維業界を自分がまとめ役となり団結させ、さらには政治力を対外的にも活用しようというものであった。その背景には、1971年当時、戦後の日米間に起こった繊維業界の貿易摩擦があった。最終的には、宮崎さんは業界を代表して米国の矢面に立ち、難航した「日米繊維交渉」を決着させた。この時、日本側に手を焼いた当時のニクソン大統領に、宮崎さんの勇猛果敢ぶりを評し、「オンリーミヤザキ」とまで言わしめたというエピソードが残ったほどである。話を戻すが、中曽根さんには、私が総務担当、総務担当役員としても対応した「宮崎さんのお別れ会」や「山口さんのお別れ会」にも参列していただいた。中曽根さんのご冥福を衷心よりお祈りします。☆