マスコミ報道の“在り方”を考える

マスコミ報道の“在り方”を考える

古い話となるが、数々の名言を残したことでも有名な田中角栄元首相は、マスコミを「第4の権力」と呼んだ。電波を媒体とするテレビ・ラジオや活字媒体による新聞・雑誌等の報道は、速報性・同時性の優劣により、同じ事柄でもその扱い方に微妙な違いが生じる。また、報道する側の思いによっては、時に偏向報道にもなる。真実・事実だけを報道することの難しさは理解できるし、報道する側の事実誤認や勘違いで誤報となるケースもあろう。ただ、政治関連報道については、マスコミ企業の経営幹部や制作スタッフが“ある政治観”で結束すれば、自分たちが望む方向に国民を誘導することも不可能ではない。だから政治関連の場合は特にだが、完璧な公平性を求めることには無理がある。政権与党に対する監視を名目に、あたかも野党を代弁するかのごとく現政権を批判することもあれば、反対に時の政権と気脈を通じてプロパガンダ(政治的意図を持つ宣伝)を行えば、政敵を“失墜”させることもできるのでは。新聞報道で“例示”をすれば、知識人の間でイメージされている『朝日』『毎日』対『読売』『産経』のように、これまで「左翼(進歩主義)対右翼(保守主義)」などと対立した二分法で語られてきた点などが挙げられる。朝日は不偏不党・公正中立を謳ってはいるが、歴史をさかのぼれば左翼勢力の機関紙のような様相を呈したこともあり、とりわけ2009年に戦後最多の議席数を獲得して発足した民主党政権時代には、下野した自民党に対しては手段を選ばずの手厳しさがあった印象がある。要は、そのような「権力」をもつマスコミ報道やメディア企業を、受け手(視聴者・読者)がどのように位置づけ、判断するかで決まる。電波報道の方には法規定(放送法第4条など)があり、多少は自主規制が働く面もあるが、それでもせいぜい最大公約数的な内容までであろう。また、人間がやる以上、大なり小なり不確実さは付きものであるし、ある事柄に肩入れする思いで報じれば、それが“過ぎたるもの”と認識されれば偏向報道と見なされ、結果として批判や反論を招くことにもなる。内容次第では、「報道の自由」を危機にさらす恐れもでてくる。「知る権利」を盾に実名報道をしたり、反対に扱いを控えめにすれば、政治関連情報の場合は支持政党への忖度が働いていると推測されたりもする。社会主義国(中国・北朝鮮・旧ソ連等)においては、国家トップや支配政党の方針を念頭に番組編成や記事編集がなされ、時には捏造(ねつぞう)もあるのだろう。しかし、我が国においては、「マスコミは反権力・反国家であるべき」ということが言われた時期もあったくらいで、反政府や政府批判をすることをしても咎められることはなかった。ただ、現代の日本メディアには言論の自由と民主主義が根本にあるとは言っても、その基本は客観報道のはず。事実を歪曲・捏造して情報操作をしたり、日本の名誉を傷つけたり、国益を損なうような報道を垂れ流すことだけは「ノー・サンキュー」である。※本論は月刊誌「リベラルタイム」2020年9月号に「匠の視点(第5回)」としても掲載。