「人間・山口信夫」が主張したこと
「人間・山口信夫」とは、約10年前に中央公論新社から発刊された綱淵昭三氏の“信じた道を曲げず”というサブタイトルの著作本のことである。旭化成会長や日本商工会議所会頭などを務めた山口信夫氏(私が旭化成勤務時代の直属の上司だったこともあり、失礼ながら、以後は山口と記させていただく)は、85歳で現役のまま生涯を終えた。山口については、雑誌「財界」の編集長などを歴任した経済評論家の大野誠治氏の「“一隅を照らす経営”を貫いた」という題の著作本など、他にも多々ある。ただ、私は山口が当時まだ副社長をしていた1985年7月から2010年に急逝したその“瞬間”までの約25年間、秘書や補佐役などをしながら、極めて身近で仕え、まさに謦咳に接してきた。そこで今回のアーカイブでは、山口について語られてきたことを簡潔に述べてみることにした。山口は広島県出身で、陸軍士官学校58期を名実共に首席で卒業し、極寒の旧ソ連領「エラブガ」の収容所に3年間ほど抑留され、そのため3年遅れて入学した一橋大学もほぼトップクラスで卒業。卒業後入社した旭化成では、宮崎輝という社長・会長を31年間務めた経営者を補佐し、「へーベルハウス」で知られる住宅事業を草創期から主力事業の一つにまで育て上げた功労者であった。一方、日商会頭の立場では、政府や与党に対しても、率直に景気対策や中小企業への支援強化を働きかけるなど、経済界のリーダーとしても評価されていた。持論は、「かつての日本が持っていた資産は、日本人の教育水準・技術水準の高さと勤勉さであり、それらを取り戻し、向上させることが大事である」というものであった。そして「国民が政治に求めているものは、国の防衛や環境などの『安全』と、社会保障などの老後の『安心』である」と考えていた。日本の将来を心底から憂い、早くから当時の日本の課題解決のための主張をしていた。まず取り上げていたのは、“産業空洞化”の問題であった。人も含め、食糧・原料・エネルギーなどの資源が不足していた日本は、それらを購入するための外貨を稼ぐ必然性から輸出立国以外は生きる手立てはなかった。一方でグローバル化に直面して加速される企業の海外移転をどのように抑えるか、という点であった。モノづくりこそが、日本の加工貿易の根幹であるのは当然であったが、そのためには国内で高度な技術を保つことが世界に伍していく唯一の道である、と常に口にしていた。次に、地域の活性化や中小企業の底上げの問題では、“健康な日本”の創造には地域の活性化が最重要との認識で、全国の地場産業の頑張りぶりを視察して回る現場主義者だった。当時のある政権が主張した「コンクリートから人へ」の主眼とは異なり、地域で結節できていない幹線道路をきちんと付ける必要性を訴えていた。これらは山口が早くから提言していた課題であったが、今でこそ国の重要政策の一つに位置付けられている少子化問題は人づくりと共に日本の将来にかかわる大問題であるとして、国を挙げて取り組むべきだと早くから主張し、内閣に少子化担当相が設けられるきっかけにもなった。そして首都圏空港の強化の問題もあった。具体的には、「羽田空港全体のキャパシティを増やし、増大する航空需要に応えていく」ということに収斂されるかと思われる。東京のためというよりは、国のためであるという視点であり、東京湾を埋め立ててでも羽田を整備し(成田空港の問題も含めて)解決しなければ、グローバル化に対抗できず国際競争力は弱まるばかりだと憂慮していた。現状では、かなり改善されたが、国際会議などの開催条件などにとっても不利であるし、羽田空港を「アジアへの窓口」とし、都心への近接アクセスという優位性を十分活かすことは、日本の成長戦略インフラとしても必要であるとしていた。早くからこれらの問題を指摘し、改善策を説いていた山口の先見性は今考えても凄かったことがわかる。亡くなる2年半前のある講演の中で、「これまでの人生において関係したすべての人たちに感謝しつつ、『積善の家には余慶あり』という言葉を引用し、もう一度無からやり直したい」と話していたことが懐かしく思い出される。その他にも数々の要職をこなす中で、特に心を砕いたのは、会長職を長年務めた「全国防衛協会連合会」「日本実業団柔道連盟」の二つだった。隣国の韓国との間に急浮上した外交問題や、これまで旭化成が得意としてきた日本柔道やマラソン界の現状を“天上からどのような思いで眺めているだろう”。山口は、余計な物言いをすることは決してなく、存在そのものが大人(たいじん)の風格で、今で言うカリスマという言葉を想起させる上司であった。